現役塾講師の教育さまざまブログ

現役塾講師が日々思っていることを様々綴ります。

論説文とは何かの議論

論説文とは何か。

論説文とは、説明文に筆者の意見が混ざったものです。簡単には、

 論説文 = 説明文(事実) + 筆者の意見

です。これは以前も書いたことがあります。

jyukukoushiburogu.hateblo.jp最近知ったのですが、論説文はそのような考え方だと決められない! って言ってる学者がけっこういるようなんです。論説文の定義に異議があるんですって。

その人たちの言い分はこうです。

 

例えば説明して何かの結論にたどり着いたものとする。でもその結論が、具体的な証明がない、あるいは不明瞭な場合は、筆者やほかの誰かが考えついたから言えることであるわけで、それは論説文になってしまうのではないか。

具体的にはその人たちの主張だと、歴史の教科書なんかがそれになってしまいます。歴史の教科書は、実際には証明されていない事柄も歴史の流れを考察した上で空白の歴史を埋めてしまっている部分があるわけなんですね。裏付けのとれていない部分は誰かの考えに基づくものであるのだから、それが混ざっている歴史の教科書はすべて論説文なのだ、と考えるようです。

こういう話を真に受けて、塾講師でもこういう考え方をしている人が出てきてしまっているといいます。しかも年々広がっているのだそうな。そういう講師は論説文という言葉をあえて伏せて生徒に教えるんだそうです。

 

・・・えーっと、

それって国語の文章読解に必要なんですかね?

 

そんなのは哲学者とかが思考して問題提起して自己満足すれば良いような話であって、読解問題を解く上では全く意味がありません。面倒くさく考えたい人が他人に迷惑をかけない範囲で勝手にやれば良いと思います。

国語においての論説文というのは、あくまで読解する上で

 ・筆者が事実として読者に伝えたい事柄なのか

 ・筆者が自分の意見や考え、主張として読者に伝えたい事柄なのか

が問題を解く判断基準として大切になってくるわけです。問題の構成だってこれを念頭にして作られるわけです。その文章に書かれた内容がどこまで証明できているかなんて関係ありません。

 

その人たちの主張が許されるのであれば、

じゃあM1グランプリとか、漫才をやるというコンセプトなのに実際に行われている内容はほとんどがセットのないショートコントですよ。でもあれは提供する人たちが漫才だと言い切ってやっているので漫才なんです。

弁当屋が弁当を売る際、のり弁として売っていますが、海苔が主役の弁当だとは到底思えません。ほとんどの場合そこに乗っているちくわ天やコロッケが主役です。でも提供する側があれをのり弁と呼称している以上、それはのり弁です。

そういうのにもイチャモンつけてうんたらかんたらやる方々なんでしょうかね?

何か問題提起することに取り憑かれているんですか?

 

国語だって一緒です。筆者や問題作成者がこれは説明文だと決めて提供していればそれは説明文なんです。読者がどう判別するかは問題ではありません。提供する側がどう判断しているかです。その判断基準が、純粋な説明つまり事実だけとみるのか、あるいは明らかに筆者の意見が混じっているのか、という尺度なんです。

これらを端的に表現したい場合、説明文、論説文という言葉を使うことになるわけです。

 

無価値だとまでは言いませんけれども、論説文の定義がああだこうだ議論している人たち、もうちょっと周りを見た方が良いと思います。

その議論が生徒の得点に繋がりますか? その議論が将来的に何かに役立ちますか?

混乱を広げるだけの議論は止めた方が良いです。