最近は聖徳太子が存在しなかったという説の方が有力となってきていますよね。
若い人は知らないかもしれませんが、聖徳太子といえば昔はお札の定番でした。1000円札でも5000円札でも10000円札でも採用されたことがあり、100円札があった時代はそれにも採用されたことがありました。というか7回もお札に採用されたのは聖徳太子が最多です。聖徳太子は存在していて当然、というのがたぶん50代以上の人の考え方です。
でも最近は違ってきています。厩戸王(うまやどのおう)、厩戸皇子(うまやどのおうじ)は実在したのが確定事項とされるためだんだんそちらの名前が使われるようになってきていますが、なぜ聖徳太子は存在しなかったとされているのでしょうか。
ちなみに現在は「聖徳太子(厩戸王)」と併記される形ですが、どうやら聖徳太子と厩戸王は別人とするのが通説となってきています。
もっとも核心を突いているのは、聖徳太子が作ったとされる「十七条憲法」の中身です。「一、和をもって尊しと為し」でお馴染みのあれです。
604年に出された役人のための心構えとされるお触れですが、実はこの十七条憲法の実物は発見されていません。写本すらない状態です。いまのところ720年の「日本書紀」に内容が出てくるのが最古となっています。
また、十七条憲法の中身を見てみると、「あつく三宝を敬え、三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとの集いである」という部分がありますが、
あっれれ~、おかしいですね。
渡来人はもう600年代には日本にやってきていたとはいいますが、本格的に仏教が人々に布教されたのは奈良時代になってからですよ。700年代に入ってからです。奈良時代に聖武天皇が仏教の布教のために国分寺・国分尼寺というお坊さん養成所をあちこちにつくり、奈良の大仏を建立することを命じたことは有名ですね。
いくら聖徳太子が中国に精通していて律令制や仏教を研究していたとしても、役人までもが仏教を知っていて当然の状態になっているというのは600年代ではちょっとまだ早すぎませんかね。
もし十七条憲法が日本書紀の時期に出されたとするならば、日本書紀は720年ですから奈良時代初期、ちょうど仏教が広まった時期と一致します。もしそうだとするならば、622年に亡くなっているとされる聖徳太子が十七条憲法を出すのは無理なのではないでしょうか。
ほかにも十七条憲法には中国由来の用語が数多く散りばめられていたり、十七条憲法以外にも700年代に入ってからの日本を想起させる内容のものが多かったり、そもそも聖徳太子の存在を裏付けるものが発見されていなかったりと、そういうところから聖徳太子の存在が怪しくなってきています。
今後どうなっていくのでしょうかね。研究が進むとまたいろいろと明らかになっていくのではないでしょうか。